大阪○得ガイド

 
約2万年前の地球は、気温が低く大陸には氷河が発達していた。そのために、今よりも海水面が低く、日本列島は大陸と陸つづきだった。瀬戸内海や大阪湾も陸地だったこの時代には、きっとナウマンゾウなどが闊歩していたにちがいない。
 
紀元前7000年ごろ、気温の上昇に伴って海水面が上昇し、ついに大阪湾にも海水が浸入してきた。その結果、上町台地の東側には河内湾と呼ばれる内海が広がった。上町台地東側の森の宮遺跡には、そこで生活した縄文時代の人々の遺物が数多く残っている。
 
河内湾が淡水化した紀元前3世紀の弥生時代に入ると、稲作技術の伝播によって農耕生産が盛んになった。『環濠』と呼ばれる、集落を取り囲む溝をもつ大規模集落も出現し、豊富な水路を利用した物流ルートも形成された。これにより、大阪から近畿各地、九州、さらには大陸との交易が盛んに行われるようになった。
 
交易によって中国や朝鮮半島との関係が深まった古墳時代には、大阪は『難波津』と呼ばれ、古代日本の玄関口として大陸からの渡来地・使節往来の拠点として繁栄した。渡来人がもたらした窯業、建築、宗教などの文化や技術は、日本各地に広がり、巨大な倉庫群が作られた。このようにして、大阪は国際交易と商業の中心地として重要な役割を担うことになった。今の国際都市・商都大阪の原型ができたわけである。
 
仏教が盛んになった7世紀後半の飛鳥・奈良時代には、聖徳太子が仏教の興隆を願って四天王寺を大阪に建てた。当時国際交流の一大拠点となった難波津から、多くの遣隋使たち(後の遣唐使)が、大陸の文化や思想を学び、国内に持ち帰るために旅立っていった。 そして645年の「大化改新」以降、孝徳天皇が強大な力を誇る唐の圧力に対抗するため、それまでの伝統的な都の地「飛鳥」を離れ、難波長柄豊崎(前期難波宮)に都を移した。国際拠点・商業の中心地に都をおくことで、中央集権化を急いだと言われる。その後、都は再び奈良に戻ったものの、この地に副都として後期難波宮が建設され、その後も国際交流の玄関としての役割を担い続けた。
 
河内湖が埋まり、陸地化が進んだ平安・鎌倉時代。現在の天満橋から北浜の南岸にあった渡邊津は、その当時盛んになった熊野詣の起点となり、京都鳥羽の渡しから下ってくる屋形船や参拝客でおおいに賑わった。また聖徳太子が建立した四天王寺は、その西門から海に沈む夕陽が望めることで浄土信仰と結びつき、中でも五重塔は来世救済と極楽浄土を願う人たちのシンボルとして、多くの参拝客を集めた。難波津から四天王寺、住吉大社を経て熊野へ通じる道は、熊野古道と呼ばれ、仏教をあつく信仰する人たちの巡礼ルートとして整備が進んだ。
 
室町時代になると、浄土真宗の宗主蓮如が、今の大阪城のある場所に後の大坂本願寺(石山本願寺)となる大坂坊舎を建立。その後坊舎周辺は栄え、現在の大阪の基盤が築かれた。特に見晴らしがよく敵からも攻めにくいと評判の上町台地は、織田信長をして「大坂はおよそ日本一の境界なり。」と言わしめ、大和川と淀川による水運にも恵まれた、日本の国際交流の要地として着目されていた。大阪という地名は、この上町台地の突端にあった小坂(おさか)という地名が語源だという説もある。
 
織田信長の意思をついで大阪を拠点に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、1583年に大坂本願寺のあとに大阪城を築城し、ここを居城とした。ついで東横堀川、西横堀川、阿波堀川などをつくり、下水道をはりめぐらせ、海運・水運の拠点として大坂の名を不動のものに。今の船場周辺の町並みや屋敷の区割りベースは、この当時の都市計画の名残。また秀吉は、各地から腕ききの商人を移住させ、木綿や油、薬種、金属加工などの産業の集中を図った。さらに海外交易にも力を注ぎ、商人たちは商談のため東南アジアを往来し、まさに大坂は世界でも有数の大都市、商都として黄金時代を迎えた。しかしながらこの大阪城と城下町は、1611年の大坂冬の陣、1615年の夏の陣で、焦土と化してしまう。
 
秀吉の時代が終わり江戸期に入ると、焼け野原となった大坂は復興し、「天下の台所」として全国に名を馳せる。水運・海運ルートが確立しているおかげで、全国から米・油・野菜・魚などの物資が集まり出荷される流通拠点として、国際貿易にも結びついた国内最大の経済都市となったのだ。物資の中でも米は例年150万石前後が取引され、蔵屋敷が立ち並ぶ堂島川・土佐堀川べりを中心とした堂島米市場の米相場が、全国相場の基準とされたほどだ。「転んでもただでは起きない」と言われる大阪人のイメージはこの時代を生きた大坂商人の逞しさと底力からくるものかもしれない。
 
大坂の商いが栄え経済が潤うにつれ、町人たちはさまざまな文化を開花させる。 まず文芸の分野では、竹本義太夫の率いる人形浄瑠璃「竹本座」が劇作家近松門左衛門と組んだ作品「曽根崎心中」は、一世を風靡。また、リアリズム作家と称される井原西鶴の「好色一代男」や、国学者・浮世草子・読本作家として名をあげた上田秋成の「雨月物語」などの秀逸な文芸文化がつぎつぎと花開き、町は芝居や文芸の話で湧き上がった。 また学術・教育の分野でも、大坂は時代の一歩先を進んでいた。日本にまだ組織的・体系的な「学校」が存在しなかったこの時代に、いち早く漢学塾など好学と自治の風を伝える学校が存在し、大坂の学問的基盤をつくっていた。その中で、富豪町人5人が発起人となった町人のための学問所「懐徳堂」は、自然と人間と社会認識を儒教から学ぶという、当時としてはユニークな発想で、町人に自由な制度と思想をもたらした。一方で緒方洪庵が開設した「適塾」は、幕末維新に活躍した福沢諭吉や大島圭介を育てた蘭学・医学の学問所で、当時の思想界に大きな影響を与え、この自由闊達な町人の町大坂で最先端の学問や思想を学ぼうと、全国から気鋭の英才たちが集まった。このように、文芸・文学・教育・学術と、時代の流れを敏感に感じ取り自らの文化として昇華していく先人たちの気風は、今も大阪の町に息づいている。
 
 
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