OSAKAを知って、感じて

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経済力を背景に発展「文化と知の系譜」

 先史時代には半島(現在の上町台地)を挟んで河内湖と瀬戸内海だった大阪。地形の変化とともに、時代の表舞台にたびたび登場してきます。

 5世紀頃には海上交通の要所として栄え、古代国家の役所などが立ち並び、朝鮮半島や中国大陸からの外賓を迎える、わが国の国際的な玄関口にもなっていました。海外からの文化や技術の導入とともに、国内に伝えられたものに仏教があります。時の朝廷が国策の一環として仏教を広めるために、6世紀には日本最初の官寺として聖徳太子の手により四天王寺が建立されました。また平城京より前の7世紀中ごろには本格的な都城・難波宮が築かれました。

 戦国期以降は、「大坂はおよそ日本一の境地」といいながらも道半ばで倒れた織田信長の意志を引き継ぎ、豊臣秀吉が広壮な大坂城を築き、その周辺には碁盤の目状に整然と区画された城下町が整えられました。

 大坂の町は夏の陣により、いったん灰燼に帰すことになりますが、江戸時代初期、徳川家康の孫・松平忠明により、旧市街地の復興とともに、堀の開削や町家の建設を促進するといった新しい市街地開発にも力が注がれ、17世紀後半以降、大坂は大きく発展します。

 この時代、全国の諸藩の蔵屋敷が数多くおかれ、各地の特産物が集まり、「天下の台所」として日本経済の中心地として栄えるようになります。

 こうした経済力を背景にして文化も大きく発展し、近松門左衛門に代表される浄瑠璃などの芸能、井原西鶴の俳諧などの文芸、ほかにも医学や天文学、植物学といった学問が発展し、町人文化の最盛期を迎えることになります。

 特に教育機関(懐徳堂や適塾、含翠堂、蒹葭堂などが江戸後期には有名)に対しては、大坂商人が運営資金を出資して、第一級の学者を輩出。そのアカデミズムの系譜は多くの大学への受け継がれています。

 ※江戸時代以前の大阪は、「大坂」と表記されます。


■文楽(人形浄瑠璃)

文楽(人形浄瑠璃)

 義太夫節を語る太夫、伴奏する太棹三味線にあわせて、人形遣いが人形をあやつり、戯曲的な内容で義理と人情のしがらみに苦悩する人間の内面をリアルに描きます。義太夫節を始めた竹本義太夫は道頓堀に芝居小屋「竹本座」を創設。その座付き作家となった近松門左衛門は「曾根崎心中」ほか多くの名作を世に送り出しました。「文楽」の名は18世紀の興行師・植村文楽軒から。2003年にはユネスコ世界無形遺産に認定。国立文楽劇場を本拠地とし、後継者の人材育成に取り組んでいます。

■上方歌舞伎

上方歌舞伎

 出雲の阿国が京で演じたかぶきおどりを起源とする歌舞伎。武士のまち江戸では、勇壮で荒々しく超人的ヒーローが悪を成敗する「荒事」が生まれましたが、町人のまち大阪では、豊かな経済力を携えた町人たちを主人公にした華やかな「和事」が好まれました。また、江戸歌舞伎はどちらかというと形式美を重んじたのに対し、上方歌舞伎はスペクタクル的要素を積極的に取り入れ、回り舞台やセリといった舞台機構も大阪で採用されました。

■能・狂言

能・狂言

 能・狂言の起源は正確にはわかってませんが、奈良時代に中国からわが国に伝わった「散楽」「申楽」や日本の田楽の影響を受けたといわれています。室町時代に観阿弥・世阿弥の親子は歌と舞に重きを置き、演劇性の高いものに集大成させました。以後、親子の情、恋愛、嫉妬、死(者)といった感情そのものを抽象化し、面(おもて)を用いて演じる「能」と、コミカルなセリフ劇「狂言」とに分化していきます。近年では海外での評価も高い伝統芸能です。大阪市内には5つの能楽堂があり、公演のほか、体験講座なども開かれています。